2012/08/04増補


仁丹の町名看板をよすがに京めぐり

(案内人: 藤田眞作,湘南情報数理化学研究所 http://xymtex.com)

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[最新の記事2012/08/04]


京都こだわり探訪シリーズ
「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」

京都の辻々には,少なくなったとはいえ,仁丹の町名看板が残っています. もともとは森下仁丹が宣伝のために貼ったものですが、 堅牢な造りゆえに80年以上も残り,大切に伝えられているのをみると, もはや京都の文化の一部になっているといえます.本シリーズでは、 町名看板を探しながら、町名の由来の詮索,史跡探訪,文学散歩, そして和菓子探訪をこころみます.森下仁丹の広報誌「仁丹堂」の記事 (2007年11月2008年3月, 本シリーズの第1弾に相当)の案内役として集めた資料をもとに,詳しいバージョンとして 公表するものです. 「仁丹堂」の記事ともども,お楽しみください (2007/11/1).

このシリーズは, このホームページで公開しているTeX/LaTeX用の 縦組組版パッケージを用いて,組版をおこなったものです. ダウンロードしていただくとわかりますが,シリーズ全体が, 組版のサンプルになっています.縦組組版パッケージをもちいますと, 俳句,和歌,漢詩などを無理なく挿入することができます.

〔最新〕 仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第14弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第14弾です.

第27回は,西は堀川通,東は西洞院通,北は六角通,南は四条通に 囲まれた地域をめぐります.本シリーズ第2回の北,第24回の東にあたる区画です. 京都市指定有形文化財の野口家住宅を訪ねたあと, 「蟷螂山と外郎---珍説命名考」と題して, 祇園祭の蟷螂山について,名前の由来を一くさり. 次は,空也堂を訪ね,王服茶と茶筌,茶筌を商った鉢叩きについて,往時をしのびます. 鉢叩きは,伝承芸能として現在も残っていますが,江戸期には隆盛を極め, 狂言に「鉢叩き」の演目があるほどです.また, 去来の「鉢扣の辭」からも伺えるように,蕉門俳諧でも好んで取り扱われています. 芭蕉の句「長嘯の墓もめぐるか鉢叩き」を手がかりに, 木下長嘯子,句兄弟などの話題を取り上げ,「芭蕉追悼と鉢叩き」,「江戸中期の俳諧と鉢叩き」の 話に続きます.さらに,この地域は,本能寺の故地.織田信長から天下一の称号をあたえられた 畳師伊阿弥もこのあたりに住んでいました.また地下水の豊富な地域でもあり,代表として 肉桂水を採り上げます.

第28回は,第27回の北に隣接する地域(西は堀川通,東は西洞院通,北は御池通,南は六角通)です. まず,越後神社.路地の奥に鎮座しているので,探すのに一苦労. このあたりは,写し友禅の発祥の地.その連想で,関東呉服所亀屋源太郎の話. 『都名所図会』(安永九年〔一七八〇〕ごろ刊行)所載の「柳の水」が復活したので,紹介します. 柳水町の西半分を含む一町は,平安時代の末期の崇徳上皇の御所あったところ. 保元の乱のあと,後白河天皇側に敗れた崇徳上皇は讃岐に流されそこで憤死します. また,時代は下って,信長の不肖の息子織田信雄の住んだところでもあります. 妹辻子(いもうとのずし)では,「ユーフォの門」と橘逸勢邸址を紹介. 太平洋戦争時の強制疎開の理不尽さにも言及します. (2012/08/04)


仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第1弾〕

第1回は,鴨長明の方丈記に記載されている「安元の大火」の火元がどこかを 町名看板をよすがに探します.第2回は,名水「醒ヶ井」の今昔を訪ねます. 醒ヶ井ゆかりの和菓子から始まって和菓子に終わりますが,途中で,和歌三神を 話の種に古今和歌集から落語まで渉り歩きます.第3回と第4回は,五条天神と 菅大臣神社の祭神の相異を軸に話が進みます. (2007/11/1)[2007/12/26改訂]

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第2弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第2弾です. 京都市下京区烏丸通西側,北は松原通,南は六条通に挟まれた界隈をめぐります. 第5回の登場人物は,美人の誉れたかい衣通姫(そとおりひめ)と小野小町. 第6回には,吉野太夫 (2007/12/26).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第3弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第3弾です. 今回は, 京都市下京区烏丸通東側から鴨川まで,北は高辻通,南は六条通に挟まれた界隈をめぐります. 第7回の登場人物は,因幡堂の鬼瓦こと大名の奥方,和泉式部,源氏物語の夕顔,丑の刻詣の鬼女 などの女性陣.男性陣は,平井保昌,松永貞徳,東條義門など多彩. 因幡薬師に関して,『軽口露がはなし』所載の笑話のほか, 艸蟲齋多什(そうちゅうさいたじゅう)作の笑話も収録しました. 第8回の女性陣は,落語の別嬪の女ごし,扇屋の女性など. 男性陣は,藤原俊成,平忠度がでてまいります. (2008/01/20).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第4弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第4弾です. 今回は, 京都市下京区新町通から柳馬場通まで,北は四条通,南は高辻通に挟まれた界隈をめぐります. 第9回の登場人物は,本居宣長と与謝蕪村.繁昌神社の班女の由来について,新説をでっち上げました. 第10回は,源頼政の鵺退治.円山応挙もちょっとでてきます.与謝蕪村と円山応挙,さらには本居宣長 がほぼ同時代であることに気付いて,知識不足を思い知った次第です.この狭い界隈に文化人の 密度の高い時代があったことは,現在のビジネス街の風景からは想像できません. (2008/02/19).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第5弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第5弾です. 第11回は,西は富小路通,東は寺町通,北は四条通, 南は高辻通に囲まれた界隈をめぐります.ここは京都市下京区の繁華街の一角です. 寺町通にはその名の通り,たくさんの寺があります.四条通に面した冠者殿社にまつわる話として, 源義経を狙った土佐坊昌俊がでてきます. 第12回は,第8回でめぐったところの南の地域です. この回の前半は,五条通の南,鴨川と河原町に挟まれた地域. 源融の河原院にまつわる話を集めます. 源融は,『源氏物語』の光源氏のモデルといわれている人物. 河原院は,光源氏の邸宅「六条院」のモデルとなっているともいわれています. 折りしも2008年は,『源氏物語』千年紀. 後半は下寺町.正式の町名である本塩竃町は,源融が河原院 にしつらえたとされる塩竃の景にちなむもの. ここにもたくさん寺院が集まっています.その中で とくに由来のあるのが長講堂.この寺のつながりで, 後白河法皇と平家物語が出てきます.市比売神社も話題に ことかかないところです.そのほかのところも,「知る人ぞ知る」です. (2008/03/21).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第6弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第6弾です. 第13回の前半は,枳殻邸と東本願寺を中心とする地域をめぐります. 一地点に町名の異なる看板が4枚も貼ってあるところがでてきます. 後半は,鴨川に架る正面橋を中心とする界隈です.高瀬川が 流れていますので,かっての水運の名残を訪ねます. 第14回は,西本願寺門前をめぐります. まず『新開道路碑』を手始めにして, 新旧の花屋町通のできた経緯を詮索します. 西本願寺が新選組の屯所であったことにふれ, 西本願寺学林(龍谷大学の前身)との関わりについて紹介します. 菓子『松風』の名前の由来については,能『松風』の紹介から はじめます.若宮八幡宮の由来は,吾妻鏡を引用しながら, とくに詳しく紹介します.西本願寺の紹介から, 『往生要集』などにもふれます. (2008/08/10).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第7弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第7弾です. 第15回は,北は七条通,南はJR線路,東は京都駅前, 西は堀川通に囲まれた一画です.不動堂や道祖神社を 訪ね,新選組の不動堂村屯所がどこにあったかを 探ります. 第16回は,まず,西本願寺の南.国宝の唐門や竜谷大学大宮学舎を 訪れます.七条通を渡って南は,梅が枝の手水鉢,芹根水. 粟島堂では,与謝蕪村の跡を訪ね, 三哲竜岸寺では,尾崎放哉をしのびます. 最後は,梅が枝餅で締めくくります.(2009/01/11).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第8弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第8弾です. 第17回は,山陰本線丹波口で下車して, 北は五条通,南は正面通,東は大宮通,西は千本通に囲まれた一画をめぐります. 平安京朱雀大路の碑から始めて,福神社,住吉神社を訪ね, このあたりの町名になぜ「八条」が付いているのかを詮索します. 丹波口通は,丹波街道の起点ですが,かっては島原への道でも あったことがあきらかになります. 第18回は,島原界隈を歩きます. 六条三筋町から島原西新屋敷への移転について,その経緯を訪ね,西新屋敷を島原と呼ぶ由来を探ります. 文芸作品から,島原へのアクセスの今昔を図解することを試みます. かって花街として栄えたことをしのびつつ, 島原歌舞練場跡,法華寺と輪違屋,島原大門,角屋, 島原住吉神社と幸天満宮,島原西門の碑,大銀杏を訪ねます. 鴻臚館,投節,蕪村と島原,炭太祇と島原,幕末の島原など, 歴史や文芸との接点も探ります.(2010/02/12).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第9弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第9弾です. 第19回は,西新屋敷児童公園(旧丹波口駅)を出発点として,その西南の地域をめぐります. まず,源平盛衰記から猫間中納言と木曾義仲の話. 千本七条は,旧朱雀村で,七条丹波口ともいわれ,丹波街道の起点. この近辺は,旧国鉄(JR)の高架化,旧市電の設置と廃止で大きく変化します. 豆之子稲荷と諏訪神社を訪ね,神社が地域に根付いていることを目の当たりに します.最後は,維新を駆け抜けた二人,村山たかと島田魁の跡をめぐります. 第20回は,堀川五条交差点の西南と西北の地域. ここは,移転して今はない六条本圀寺の故地です. 移転せずに残っている子院(塔頭)のいくつかを紹介したあと, その壮大な寺域をしのんで,町名の柿本町について詮索します. さらには,六条本圀寺を突き抜けた五条通が,いつ開通したのかを 古地図を比べながら調査します.(2010/07/21).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第10弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第10弾です. 第21回は, 東は堀川通,西は大宮通,南は松原通,北は四条通に囲まれた地域をめぐります. まずは,北来地蔵の小祠の由来をたずね,太平洋戦争の「強制疎開」の爪痕を振り返ります. 交通の利便のみを追求して堀川を暗渠化した結果,失われてしまった景観をしのびます. さらに,妙満寺跡(二十六聖人発祥の地)の碑,天道神社,杉蛭子神社をたずね,鎌倉時代中期に このあたりに五条院があったことを紹介します.五条院は,短い間に二度の火災にあい, 当時から怪異のせいだといわれていたことを,「帝王編年記」「五代帝王物語」「徒然草」の 記事を引いて紹介します.西園寺実氏の栄華をねたんだあらぬ噂でしょうが,このような 怪異話は時代を映す鏡としておもしろい. 第22回の前半は,中堂寺西寺町を中心とする地域(東は大宮通,西は壬生川通, 南は五条通,北は高辻通に囲まれた地域)をめぐり, それぞれのお寺にまつわる話を紹介します. 末慶寺は,大津事件にまつわる「烈女畠山勇子」の話. ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やモラエスの残したエッセイや 書簡から,この一件を当時の知日外国人がどのように受け取ったかをしらべます. 長円寺は,洛陽三十三所観音霊場第二十四番札所で,中堂寺西寺町では, もっとも古く建立された寺院です. 玉樹寺は,江戸時代の産科医として有名な賀川玄悦の墓所. その著書「子玄子産論」の中で,世界で初めて胎児の姿勢を「背面倒首」と喝破した医者です. 医者であっておごることなく庶民目線を忘れなかった,その生涯は感動的です. 一貫町通松原南は,江戸時代を通じて賀川家が代々塾兼産院を経営した場所でもあります. 第22回の後半は,前半の地域の西側,JR丹波口駅の東北の地域で, 大部分は,かっての日本専売公社(現日本たばこ産業)工場の跡地です. 現在は,京都産業大学付属の中学・高校敷地として造成中で, このあたりが文教地区として再生している様子がうかがえます. (2010/11/24).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第11弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第11弾です. 第23回の前半は,壬生寺の界隈をめぐります.前回(第22回)の後半でめぐった地域の ちょうど北側です.通りの名称でいえば, 東は壬生川通,西は千本通,南は高辻通,北は四条通に囲まれた地域です. まずは,千本通りを北上します. 商店が点在する通りには,町名看板がいくつか残っています. 嵐電の高架をくぐると四条通にでます. このあたりでは,なにをおいても,壬生寺に触れないわけにはゆきません. まずは,江戸時代の壬生寺の偉容を『都名所図会』などの記事に基づいて 紹介します.壬生寺本尊の地蔵尊は,縄目地蔵として『太平記』にも して載っています.その顛末を一くさり. 地蔵尊札所としてだけでなく,塔頭の中院は観音札所としても有名です. さらには,壬生寺といえば,「壬生狂言」です. なかでも「焙烙割」が圧巻.近くにある八木家住宅は,幕末に新選組の屯所となったところ. 同じく新撰組の屯所となった新徳寺には,屋根葺地蔵の伝承が残っています. 壬生寺から坊城通を北上し,嵐電の踏切を渡って,四条通に出るところに,梛神社. 梛にちなんで,古く,このあたりの特産であった水葱の話.これは,「屎(くそ)小路」変じて 「錦(にしき)小路」となる改名譚のもとになった『宇治拾遺物語』の清徳聖の話に結びつきます. 第23回の後半は,東は大宮通,西は壬生川通,南は高辻通,北は四条通に囲まれた地域です. このあたりは,寺院の多いところ.それぞれに文人や画家についての逸話があります. 炭太祇,頼山陽など. 第24回の前半は,後院通,六角通,大宮通で囲まれた三角の地域. 京都としては珍しく斜めに走っている後院通は, 四条大宮から電車を通すため.多分,千本通の四条〜三条間の材木商の反対で, 線路を矩形に設置できなかったのでしょう.この市電も今は撤去されてありません. このあたりも,寺院が集まっています.善想寺には,泥足地蔵・汗出し地蔵 の伝承が残っています.六角通に面したあたりは,江戸時代に六角獄舎が あったところ.山脇東洋が本邦最初の死体解剖をおこなったところとして有名です. また,幕末のどさくさで,平野国臣らの勤皇志士が殺害された場所でもあります. 第24回の後半は,前半の地域の東側. 東は堀川通,西は大宮通,南は四条通,北は六角通に囲まれた地域です. 堀川通は,太平洋戦争時に強制疎開がおこなわれた通りで,その痕跡を探ります. 岩上神社が中山神社ともいわれる由来を尋ねます. (2011/06/06).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第12弾〕

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第12弾です.

第25回は,山陰本線二条駅で下車して,西は千本通,東は大宮通,北は押小路通, 南は六角通で囲まれた地域をめぐります.二条城の南の一角です.神泉苑も この地域に含まれますが,次回にゆずることにします. このあたりは,遠く平安時代は,大学寮(現在の国立大学に相当)があったところ. 紀長谷雄,清原善澄という学者先生の,今も昔もかわらない行状. そのあと,弘文院,奨学院,勧学院などの大学別曹(氏族の子弟ための寄宿舎, 現在の私立大学に相当)のあとを訪ねます.下って江戸時代に二条城が設営された のちは,京都の東西の奉行所があった場所でもあります.奉行所の与力には,文雅の 士が輩出していますので,とくに,神沢杜口と平塚飄斎を紹介します. 町中で見つけた「御土圍地蔵」という小詞の由来を詮索し,このあたりに小浜藩邸が あったことにふれます.この藩邸は,大政奉還の際に,徳川最後の 将軍慶喜が滞在して,評議を重ねたところです.武信稲荷,北向き不動.二条陣屋など についても少しだけ説明します.二条駅のJR高架のすぐ東には,最近になって, 立命館大学や仏教大学が進出しています.平安時代の文京地区が復活しているようで, おもしろい現象です.

第26回は,「神泉苑と御霊会」と題して,第25回の東側,大宮通と堀川通ではさまれた 地域をめぐります.この回の前半は,平安時代に,神泉苑で繰り広げられた数々の行事に ついて,神泉苑での遊興,神泉苑の雨乞い祈願,神泉苑と文芸などを説明します. 「雨乞いは,神泉苑」というキャッチフレーズで,繰り返し神泉苑が出てまいります. ことのはじめは,空海の祈雨.この話に尾ひれがついて,空海と守敏の法力比べや 矢取地蔵の話につながります.時代ややや下って,雨僧正として売り出した仁海.祈祷だけ でなく,文芸・音曲など,手段はいろいろに変わります.まず,和歌による祈雨では, 雨乞小町.琵琶による祈雨では,藤原師長.さらには,舞による祈雨では静御前. すこし,まじめなところでは,平安時代初期の勅撰漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』 『経国集』の中で神泉苑が繰り返し題材になります.空海,菅原清公,菅原道真など. 和漢朗詠集や徒然草にも,神泉苑が出てきます.さらには,能にでてくる五位鷺の話. 神泉苑は,御霊会の始まりでもあります.これが,現在の祇園祭につながっています. 三条通商店街の祇園又旅御供社は,祇園祭で祭礼の行列が立ち寄るところ.和歌の 冷泉家に繋がる御子左家.その始まりは,皇子にして左大臣であった, 「御子左」こと源兼明.その兎裘賦は,痛烈でおもしろい(2011/11/06).

仁丹の町名看板をよすがに京めぐり〔第13弾〕(番外編)

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」第13弾(番外編)です.

「吉崎・福井紀行」と題して,福井県の 名所旧跡を訪問した記録を,2回に分けて掲載します.

番外1は,福井県あわら市吉崎を訪ねます.まずは,蓮如上人の 吉崎御坊の跡.加賀千代女が吉崎御坊でおこなわれる蓮如忌に 参ったときの『吉崎紀行』の跡をしのびます.松尾芭蕉は, 吉崎経由で歌枕「汐越の松」を訪ねていますので, 『おくのほそ道』の該当の箇所を引用して,昔をしのびます.

番外2は,福井市内をめぐります. 継体天皇は,古事記の時代. 新田義貞は,南北朝時代. 柴田勝家やお市の方は,安土桃山時代. 松平春嶽,岡倉天心,橋本左内は,幕末・明治. いずれも動乱の時期に活躍した人物の跡をめぐります. さらに,幕末の歌人橘曙覧をしのび, 松尾芭蕉の『おくのほそ道』の跡もめぐります(2011/11/21).

京都こだわり探訪シリーズ 「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」
付録

「仁丹堂」の記事

許可を得て転載(2009/3/17)

「きんか」の記事

許可を得て転載(2009/3/17)